[モデルコース]
開明庁舎→戎橋→だんじり小屋→中国街道碑→福井邸→初嶋大神宮→大黒橋→国道43号→大物橋跡の碑→大物主神社→大物川緑地公園
(距離)約2km
(建物の内部や施設内を見学しない場合の所要時間)約1時間
中国街道について
江戸時代の尼崎城築城の後、城内の南側を通っていた中国街道が城の外へ大きく迂回させられました。
今回のウォーキングコースは、南へぐっと迂回した中国街道を辿る道です。
1 開明庁舎(旧開明尋常小学校)からスタート!
昭和12(1937)年竣工のモダニズム建築の建物で、かつては小学校として使われていました。
今は国登録有形文化財に登録されています。
校庭の塀には、太平洋戦争末期、米軍兵による機銃掃射の攻撃の跡と思われる跡が残っています。
2 戎橋(えびすばし)
築地町にかかる橋の一つ。この橋を渡ると築地町です。
3 だんじり小屋
例年9月の敬老の日とその前日の2日間、主に夕方頃から行われている築地だんじりまつり。そのだんじりを保存している小屋です。
各地区のだんじりがひっそりと出番を待っています。
4 中国街道碑
築地町2丁目に建てられた中国街道碑。
5 福井邸
築地町は、平成7年の阪神・淡路大震災により液状化現象を起こした際、
街全体にわたって震災復興の土地区画整理が施工されました。
その際、明治初年築の町屋で都市美形成建築物であるこの「福井邸」は、唯一建物として保存されました。
6 初嶋大神宮
築地町の氏神様「初嶋大神宮」。
「初嶋」というのは、この付近が浦初島(うらのはつしま)と呼ばれ
歌に詠まれる名勝地であったことに由来するものであると考えられています。
※web版尼崎地域史事典 apedia(http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/)より
7 大黒橋
こちらが今の大黒橋ですが、旧中国街道はもう一本南側でした。
旧中国街道沿いに、こちらの「中国街道大黒橋跡」があります。
碑には、享保の象行列の記載があります。
江戸時代八代将軍吉宗の時、中国の貿易商が牡牝2頭の象を将軍に献上することがあったそう。
牝象は長崎上陸後に急死してしまいましたが、牡象は長崎から江戸までの道のりを73日かけて歩き切りました。
道中尼崎城下も通り、現在の貴布禰神社付近にあった別所村で一泊して大阪へ向かいました。
通行の当日は、象が驚かないよう牛馬や犬猫は目につかない所につなぐ、社寺の金や太鼓、鍛冶屋、大工等の音をたてない、見物人は大声を出さない等の心得書が出されたそうです。
江戸時代に象が尼崎を通っていたことはおろか、象が日本に来ていたことさえ知りませんでした!
当時の様子を想像すると、なんだかくすっと笑えてきますね。
8 大物橋跡の碑
国道43号線を横断し、阪神大物駅方面へ向かうと、西側に大物橋跡の碑があります。
神崎の渡しから長洲、大物と南に下る中国街道は、大物川にかかるこの橋を渡って、城下東町に入っていました。
9 大物主神社(おおものぬしじんじゃ)
大物町・大物村の氏神。若宮とも呼ばれ、境内には義経・弁慶隠れ家跡の碑や生揚醤油の碑などがあります。
また、兄・源の頼朝と不和になった義経は、再起を期してここ大物から船出し、難船したと伝えられています。
10 大物川緑地公園
ここが本日の終点大物川緑地公園です。
公園はさらに奥へと続いていますが、阪神大物駅はこの公園入口の向かいになります。
奥へ続く大物公園には、役目を終えたD51の展示もあります。
普段はフェンスの向こうには入れないのですが、毎月第3日曜日には解放されています。
おわりに
ここまで1時間ほどの道のりでした。
中国街道が賑わっていたころの尼崎のすがたはもうあまり残ってはいませんが、現代までの尼崎の変遷に思いをはせながら
お天気のいい日に歩いてみてはいかがでしょうか。