ポン酢のまち尼崎

尼崎には美味しいポン酢がたくさんあるのをご存知でしょうか?今回は尼崎で製造・販売されている美味しいポン酢をご紹介しつつ、その背景のひとつとなったと考えられるかつての尼崎の料亭についてひも解いてみたいと思います。

自社オリジナルのポン酢が人気!「ジャパニーズダイニング大はま」

まずご紹介するのは、自社でポン酢を作り、お店でお料理と合わせて提供するとともに、販売もされているお店「ジャパニーズダイニング 大はま」です。

昭和48年に割烹として開業。当時は接待などで利用するお客さんが多かったそうですが、より気軽に利用して欲しいとの想いから、現在は和風居酒屋に業態を変えて営業されています。

割烹料理店を切り盛りしていた先代の店主の時代から、50年間変わらぬレシピで受け継がれる大はまのポン酢は、五つ星ひょうごにも認定されています。

こだわりは、すだちの果汁を総量の45%もつかっていること。水は一切加えずに、出汁醤油をすだち果汁で割り、隠し味でほんの少しニンニクも入っています。お水を使ってないから、鍋を食べるときにつけダレとして使っても、ずっとポン酢の味が薄くならず、味が変わらないのだそう。

写真は2人前

冬のおススメは鯛を使った「鯛ちり鍋」。

この時期の鯛は油がよく乗っていて、ポン酢との相性抜群なんです。

ゆずでもかぼすでもなく、すだちを使っているのは、すだちが素材そのものの香りを邪魔せずに、その美味しさを最大限に引き出してくれるからだそう。

昆布水のうま味が染み出た出汁の中でくつくつ煮られた鯛は、口に入れた瞬間、ふんわりほろほろと白身が崩れていきます。

ポン酢にたっぷり入ったすだちの酸味が、お鍋の素材達の味をキリっと引き締めてくれ、おかわりがどんどん進みます。

他にもポン酢と相性の良いメニューとしておすすめなのは、ヒラメの唐揚げや、ヒラメの薄造り、揚げ餃子など。

大はまに来ると、ポン酢の味を気に入り買って帰られる外国人のお客様もいるのだとか。

お醤油の深い味わいと柑橘類のさっぱり感が融合したポン酢は、確かに他の調味料では代えがたいものです。

割烹料理店から和風居酒屋へ。来てくれるお客様は変わっても、ずっと大事に受け継がれてきたポン酢は、お店と共に、同じ場所でずっと尼崎の変遷も見守ってきてくれたのかもしれません。

言わずと知れた「ひろたのぽんず」

(左)ぽんず・一番搾り(1,000円・税抜)(右)手造りひろたのぽんず(550円・税抜)

尼崎でポン酢といえばこちらを思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。

尼崎市内以外のスーパーなどにも並ぶ「ひろたのぽんず」です。

八百屋を営んでいた先代の社長が大のてっちり好きで、自分自身がてっちりを美味しく食べたい一心で、

50歳から独学でぽんず造りに挑戦したのがはじまり。

八百屋に来る買い物客にも味見をしてもらい、8年間の試行錯誤を経てついに完成したといいます。

全国に根強いファンがいるほどの尼崎を代表するポン酢で、「手造りひろたのぽんず」、「ぽんず・一番搾り」ともに、令和5年度尼みやげにも認証されています。

また、「ぽんず・一番搾り」は、1,000円(税抜)と高価格ですが「一度食べたら忘れられなくなる」と言う人もいるほど。

最良の時期に搾られた徳島産の天然すだち果汁を100%使用したこだわりの逸品。 塩は天塩を使い、自然の椎茸・昆布・鰹節から丹念にだしをとり、丸大豆醤油で仕上げた、 最高級のぽんずです。

どちらもお鍋はもちろん、サラダや炒め物にも相性抜群!

あまがさき観光案内所ほか、公式サイト(http://hirota-s.com/)や市内各所のスーパーでも購入できます!

関西のポン酢文化

尼崎には、ご紹介した以外にも自社でポン酢を作ってお店で提供し販売している飲食店があり、食べ比べる人もいるほど!

ではなぜこんなにも尼崎でポン酢が作られているのでしょうか。

謎を解く鍵は、昭和初期の大阪にありました。

昭和初期の大阪では、空前のふぐブームが巻き起こっていました。

とにかくみんなふぐを食べたがったので、どの料亭でも出すようになったそうです。

「フグを人気者にしたのは、従来の大阪にはなかった新しい料理法、フグをゆがいて橙の果汁と醤油(現在のポン酢)で食べるという、

九州中国地方の伝統的料理法「ちり鍋」でした」(引用元:https://toyokeizai.net/articles/-/653565)。

ふぐブームの鍵となったのが、他でもないポン酢だったのです。

フグは当時も高値で取引きされていたため、料亭(お座敷があり、芸妓などを呼んで宴会をする料理屋)で提供されていました。

明治後期から大正期にかけて日本きっての都市として商業・工業・文化・軍事あらゆる面で発展した大阪では、

宗右衛門町や曽根崎新地などの花街を中心に多くの料亭があり、そこでは政治、経済、軍事にたずさわる重要な会合や接待が行われていました。

紡績会社の重役たちが会合をおこなっていた大阪船場の料亭「堺卯楼」(『大阪経済雑誌』第9年第13号、1901年)

大阪の料亭で巻き起こったふぐとポン酢のブームは、大阪と同じ文化圏であり多くの企業や工場があった工業都市尼崎にもひろまったと考えられます。

事実、尼崎にもかつては料亭が数多く存在し、置屋(芸妓を抱え、客の求めに応じて座敷に派遣する)や芸妓協同組合があったこともわかっています。

では、かつて尼崎にあった料亭を少しのぞいてみましょう。

かつて尼崎随一の料亭だった「立花楼」

立花楼(『尼崎市現勢史』(大正5年刊、歴史博物館あまがさきアーカイブズ所蔵)

昭和7年(1932)の『尼崎商工名鑑』を見ると、90軒の飲食店が掲載されています。

このなかでいわゆる”料亭”だったと考えられるのが、市庭町の「立花楼」、中在家町の「金久楼」、南城内の「きくや」です。

なかでも「立花楼」は、現在の東本町4丁目付近(阪神大物駅から南へ5分)にあった大きな料亭で、

他の飲食店とは明らかに”格”が違いました。

立花楼の紹介(前掲『尼崎市現勢史』)

大正5年(1916)刊行の『尼崎市現勢史』には、立花楼についての紹介が掲載されていて、そこには以下のように記されています(意訳)。

”立花楼は明治27年(1894)の創業で、大広間は100畳以上あり、市内唯一の大宴会場であって、

庭園や建物、室内装飾に至るまで近隣にはないほどの素晴らしさである。

尼崎名物である立花楼の「味りん仕立巻焼き」はもちろん、新鮮な食材を使った料理は大変美味しいことで有名である”

立花楼は戦後すぐに旅館業に転身し、昭和30年頃までに廃業してしまったようです。

戦後の様相

その後太平洋戦争を経て戦後復興期から高度成長期にかけて、

尼崎のまちは以前の活況を取り戻し、それと同時に料亭がさらに増えることとなります。

昭和29年(1954)の『尼崎商工名鑑』を見ると、832軒の飲食店が掲載されていて、

そのうち「料亭」は何と63軒もありました。

「芸妓斡旋」の文字も見られる(『尼崎商工名鑑』昭和29年刊、尼崎市立歴史博物館あまがさきアーカイブズ所蔵)

当時宮内町にあった料亭「近松」の近くに住んでいた方(90代)は、幼いころ見ていた「近松」のことをよく覚えていて、

「夜になると女中さんのバタバタと忙しく廊下を走りまわる音がよく聞こえていていつも盛況だった」

「重役の接待に使われていたようで、いつも夜になるとタクシーが前の道にずらーッと並んでいた」

と話していました。

かつて宮内町にあった料亭「近松」(前掲『尼崎商工名鑑』昭和29年刊)

その後企業の撤退が相次ぎ、しだいに料亭はなくなってしまいましたが、

現在もフグを提供する飲食店は市内各所にあり、料亭が数多あった頃の名残を感じることができます。

フグを人気者にした立役者のポン酢が現在も尼崎で製造・販売されているのは、こういった背景が関係しているのかもしれません。

Information

ジャパニーズダイニング 大はま

住所 :兵庫県尼崎市昭和通4-124 尼崎スカイハイツ 1F
営業時間:火~日17:00~23:00 ラストオーダー22:30
定休日:月
TEL:06-6413-8953
アクセス:阪神各線尼崎駅より徒歩約6分

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