尼崎も日本遺産?!伊丹諸白と灘の生一本

2020年、「〈伊丹諸白(もろはく)〉と〈灘の生一本(きいっぽん)〉下り酒が生んだ銘醸地(めいじょうち)伊丹と灘五郷」が日本遺産に認定されました。日本遺産って何?尼崎はこの日本遺産認定にどう関係してるの?そんな疑問にお答えします!!

日本遺産とは?

文化庁では、地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産」として認定します。


2015年から進めている取組で、ストーリーを語る上で欠かせない有形や無形の様々な文化財群を「面」として活用し、国内外に発信することで地域活性化を図ることを目的とし、これまでに104件が日本遺産に認定されています。

神戸~芦屋~西宮~伊丹~尼崎から江戸へ 「下り酒」ストーリー

さかのぼること江戸時代、現在の神戸市・芦屋市・西宮市・伊丹市・尼崎市の阪神沿岸部から、将軍のお膝元・江戸まで卸されていた清酒(下り酒)にまつわるストーリーが、時を経て、2020年6月に日本遺産として認定されました!

「〈伊丹諸白(もろはく)〉と〈灘の生一本(きいっぽん)〉下り酒が生んだ銘醸地、伊丹と灘五郷」として登録されています。

日本遺産 公式ホームページ
https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story097/index.html

伊丹生まれの「清酒」は「伊丹諸白」と呼ばれ、それまでの「濁り酒」に代わって江戸の町で絶大な人気を集めていました。伊丹で作られる清酒は、精白米が贅沢に用いられたためです。

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当時、玄米からもみを完全に取り除く「精米」作業は、杵と臼を用いる重労働!
清酒にする程大量の米を精米することは、大変な作業だったでしょうね。

伊丹の酒造技術は西宮や灘方面にも伝わり、「灘の生一本」としてさらなる発展を遂げます。

「灘五郷」というのは、西宮市から神戸市灘区までの銘醸地を指します。©伊丹市

西宮の井戸水「宮水」や、兵庫県で生み出され、六甲山地の北に位置する地域が主要産地の酒米「山田錦」が清酒の材料として奇跡的にぴったりだったこと。
そして、灘から西宮にかけての沿岸地帯を取り囲む六甲山系の川の急流や、吹き付ける「六甲おろし」を利用し、効率的に酒造りを行うことができたことが大きな要因でした。

今も湧き出る宮水。

たわわに実った山田錦。兵庫県立農林水産技術総合センターより提供

酒造業で栄えたこれらの地域では、芸術・建築、そして私立学校の設立など、酒造家たちが文化の発展に大きく寄与しました。

櫻正宗の蔵元・山邑(やまむら)家が建て、現在も芦屋に残るヨドコウ迎賓館。これに代表される「阪神間モダニズム」が明治~昭和にかけて、花開きます。株式会社淀川製鋼所より提供。

じゃあ、尼崎はなんで日本遺産に入ってんのん?

では、尼崎がこの日本遺産のどこに組み込まれているかというと、江戸への運搬の部分です。

海路を用い、江戸まで効率よく清酒を運搬するための樽廻船(たるかいせん)が江戸時代中期に誕生します。
樽に入った清酒を樽廻船で運ぶ際に、樽が傷つかないよう、ワラを織り上げた「菰(こも)」を梱包材にして包んでいました。

この菰樽(こもだる)が、尼崎周辺で盛んに製造されていたんです!

菰(こも)を樽に巻く様子。©株式会社矢野三蔵商店

清酒は、樽に入れられ菰を巻き、各酒蔵の酒銘を焼き付けて、江戸へと運ばれていきました。
清酒をきちんと運搬するとともに、酒蔵や銘柄を江戸の買い手に印象付けるための大切な役割を、尼崎の技術が担っていたんですね!

酒銘ごとの「印菰(しるしごも)」は、尼崎市立歴史博物館収蔵の「摂州酒樽薦銘鑑」に539種も収録されており、当時の銘柄の豊富さを実感することができます。

現在でも、市内には「㈱岸本吉二商店」と「㈱矢野三蔵商店」2つのメーカーがあり、菰樽造りの技術が受け継がれています。

㈱岸本吉二商店 公式ホームページ
https://www.komodaru.co.jp/

㈱矢野三蔵商店 公式ホームページ
http://www.kagamihiraki.com/index.html

なんだ、尼崎で酒造りしてた訳ちゃうやん……

確かに、尼崎において日本遺産に認定されたのは菰樽造りの技術ですが、江戸時代は尼崎でも酒造りが行われ、江戸へ卸されていました

江戸時代当初、現在の尼崎から、西は神戸市須磨の沿岸部までが尼崎藩の領地でした。
つまり、現在日本遺産に認定されているような酒造業地の多くは、尼崎藩領内にあったのです。

幕府に領地を取り上げられる前の尼崎藩領。西宮から兵庫津までの沿岸部に多くの赤丸(尼崎藩領の村)があります。尼崎市立歴史博物館地域研究史料室”あまがさきアーカイブズ”より提供。


その後、江戸幕府が「勝手造り令」を出し、届け出れば誰でも酒造りができるようになったことによって、更に尼崎藩領内の酒造りが盛り上がりを見せかけた頃……

尼崎藩は幕府により西宮、灘、兵庫の領地1万4千石を取り上げられてしまいます。

替わりに与えられたのは、兵庫県西部や中部の山間地域の村々でした。

幕府に取り上げられたため、西宮から兵庫津までの沿岸部にあった赤丸が多数消え、内陸にある山間部の村を与えられました(緑三角)。尼崎市立歴史博物館地域研究史料室”あまがさきアーカイブズ”より提供。

それでも尼崎エリアでの酒造りは続いていましたが、次第に尼崎から江戸へ卸す量が減っていき、いつしか、尼崎エリアの酒造家は一軒も無くなってしまったようです。

周囲に伊丹、灘、西宮等の強豪酒造地域があったのでは仕方がなかったのかもしれませんが、現代まで残っていないことが非常に残念ですね……。

参考

阪神間日本遺産推進協議会『〈伊丹諸白(もろはく)〉と〈灘の生一本(きいっぽん)〉下り酒が生んだ銘醸地(めいじょうち)伊丹と灘五郷』
石川 道子『尼崎城下の江戸積み酒造業』

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